子どもの事故防止対策を考える「ひろしま交通事故防止キャンペーン」。昨年5月から、事故を減らすための地域の取り組みや学校活動、交通ルールについて伝えてきた。キャンペーンの一環で交通安全作文を募集し、入賞者が決まった。最優秀賞に輝いたのは、広島市立大州中2年熊谷彩さん。入賞した3作品を紹介する。
(迫佳恵)

[最優秀賞]

広島市立大州中2年 熊谷彩さん(14)

 「車の前を通り過ぎる時は、ドライバーが自分の存在に気付いているか、歩行者が居ないかも必ず確認しんさいよ。音楽聴きながら運転せんとってよ」。
 毎朝、毎朝、母は姉に同じことを言う。
 「うん大丈夫。アイポッド持っていかんし」。しつこいとも思える母に、姉が素直に答えるには訳がある。それは、以前母が事故を起こしたことがあるからだ。その日幹線道路に出るために一時停止していた母は、右・左と車を確認し右折を始めたそうだ。その瞬間バイクと接触してしまったのだ。救急車で搬送された相手の方は、骨折や縫うような怪我はなかったものの打撲がひどかったと聞いている。「相手の方に、痛い思いをさせてしまった。もう一度、右を見て、だれも居ないこと確認せんといけんかった」。
と、母はとても後悔しさらに、ぶつかった時を思い出すから車には乗りたくないと、私たちの習い事の送迎は父にしてもらった。母は違反などしたこともなく二十年以上ゴールド免許なので、これまで気をつけて運転してきたのだと思う。それでも、事故はちょっとした不注意で起きてしまう。
 しかし逆に前もって防げる事故もある。飲酒運転による事故だ。広島では「HIROSHIMA飲酒運転ゼロプロジェクト」に取組んでいるところだが、平成25年、26年ともに飲酒運転事故発生件数は百件を超えている。母の子供時代にも『飲んだら乗るな。乗るなら飲むな』。という運動があったそうだ。いつまでたっても飲酒運転が撲滅しないのは、自分は大丈夫という過信と、ちょっとくらいという心の弱さが原因ではないだろうか。
 自動車、バイク、自転車、全てのドライバーには、握っているハンドルが自身と周りの人の人生を動かすハンドルだと認識し、注意深く、責任を持って運転していただきたい。

交通安全のメッセージ 伝えていきたい 熊谷さん

 交通事故は、起こされた方は傷つくし、起こした方も心の負担になります。私は落ち込んだ母を見るのがとてもつらかったです。事故を起こした本人だけでなく、家族も不安で悲しい思いをします。
私の家の周りは交通量が激しく、通学路も狭い道が多いです。事故を身近に感じて以来、車の動きをよく見て、私も飛び出しなどをしないように十分に注意しています。
私は美術部で、飲酒運転の撲滅ポスターを描くとき、広島県内の飲酒運転事故についてネットや新聞で調べました。事故の多さや遺族の声に心が痛みました。飲酒運転は、甘えと心の弱さからくると思います。飲めない人がいれば、集まった全員が飲まないようにする周りの気遣いも必要です。
乗り物に乗る全ての運転手は、周りの人たちに気を配って、心に余裕を持って運転してほしいです。被害者にも加害者にもならないように、これからも作文やポスターなどで交通安全のメッセージを伝えていきたいです。

[優秀賞]

広島大付属小4年 山田こはくさん(10)

私の母は二年前に交通事こにあいました。その日はちょうど、妹のおむかえの日でした。車を走らせて、田中町トンネルを出て信号まちをしていた時です。後ろからじょう用車が、もうスピードでつっこんできました。おそらく時速百キロ近く出ていたのでしょう。母の首がガンッとなり顔が前のハンドルにぶつかり、シートベルトがむねをギュウッときつくしばりました。一しゅん目をつぶった母が再びまぶたを開いた時は、つっこんできた車はあわててにげようとしていたのです。それを勇かんに母は止めて相手を車からおろさせると、真っ青になった男がただあたふたしてました。しだいにたくさんのやじうまがきました。母が冷静に一一〇番と一一九番に電話をしたのち、自分の車がどうなったのか後ろを見にいくと首にグキッとしたいたみが一気におきました。そうです、母の首のほねは、おれていたのです。しかし気が張っている母は、おちついて加害者の名前や連絡先を聞いていると救急車がサイレンをならして来ました。そしてそのまま病院へ運ばれました。ところがここから私の母のすごい所です。それは何も知らない妹がまだ幼稚園で母が来るのを待っていたので、救急車の中で心音や血圧を計ったり、首を固定するなどの処置を受けながら母は、救急隊員に「幼稚園へ!娘のいる幼稚園へ寄ってくれませんか?」とお願いしたそうです。状況を分かってくれた隊員はまず、病院をすすめましたが、母の殺気だった様子に負けて妹の待つ幼稚園に行き、妹を救急車に乗せてから急いで病院へ送りました。
 一方、私も何も知らないまま学校から帰るといつもいるはずの母がいません。不安でこわくてひとりでるす番してましたが、私の気持ちをむしして辺りは、だんだん暗くなってきます。あいにく父は海外出張でいません。自然と涙があふれてきました。そのとき、電話がなり、母がたいへんなことになっていることを知るのです。もう泣いているひまはありません。私は気を強くもち、自分にしっかりしろと言いきかせました。それからというもの母のリハビリ生活が今現在でも続いています。母はいつも周りに感謝しています。家族は協力して母のできないことを助けてます。
 このように母が交通事こを受けてから、母の体にとって心にとって何一ついいことはありません。家族にも心配事がふえ、みんなが迷わくする、苦しんでいることを加害者は事故後今でも分かっているのでしょうか。交通事こは起きたしゅん間から生きている間ずっと続くのです。被害者は沢山のストレスや、きん張と色んな場面で向き合わざるを得ないのです。いつもの平穏な生活がガラリと変わるのです。リセットできるのならあの車の運転手が法定速度で、しかもちゃんと前を見て、あたりまえの正しい運転をするのです。そうすればみんなが楽にたのしく生きられます。

[優秀賞]

東広島市立小谷小4年 荒木優花さん(10)

私は毎朝七時に家を出て、二キロ以上の遠い道のりを歩いて、小学校へ通っています。
 登校班は、私を入れてたったの三人です。
 通学路はカーブが急で、歩道のせまい場所が多いです。夏の朝は明るくて、歩きやすいですが、冬は暗くて見通しが悪いです。歩行している車もライトをつけているほどです。
 運転している人からは、歩いている私達のすがたは見えにくいので、スピードを落としてくれません。
 雨や雪など、天候が悪い日は、お父さんやお母さんや地いきのみなさんが心配して一緒に歩いてくれます。大人の人と歩くととても心強いです。
 でも最近、通学路の途中で交通事故が起こってしまいました。スピードを出しすぎたトラックがすべって、歩道に乗り上げたのです。幸い、けが人はいませんでしたが、すぐ脇のガードレールがゆがんでしまいました。そこはいつも私達が歩いている所です。私達はいつ交通事故にまきこまれるか分かりません。
 もっともっと不安になりました。
 事故から二週間後。そのガードレールは、修理されて何事も無かったように元にもどりました。でも、すっかり安心できたわけではありません。
 四月になったら、私は登校班の班長です。新しく入ってくる一年生の子と、二年生の子を無事に学校に連れて行けるようにがんばりたいです。青信号と右側通行を守って、交通指導の旗を忘れずに持って、歩道がせまくてあぶない所は早く通りすぎるようにしたいです。車のライトに反射するシールもランドセルにはります。
 そうして少しでも事故にあう危険をへらして、安全な通学路をめざしていこうと思います。